カナコラム  (更新 月曜:かなこ、木曜:endy )

父の贈り物 by endy

2004/07/29

ども、ストーンズ音痴のendyです。

●父が倒れた日

先日、昨年亡くなった父の1周忌法要がありました。
といっても10名にも満たない、親族だけが集まってのこじんまりとしたものです。
あの日から1年も経ってしまったんだと思うと、けっこう感慨深いものがあります。

父は2年前に散歩から帰ってきて倒れ、それから1年間入院して他界しました。
私が生まれて初めて「死」というものを実感したのは、実際に他界したときよりも父が倒れた日のことです。
母から会社に「お父さんが動かない」という電話が入り、急いで実家に駆けつけたときは父は救急車に乗せられるところでした。

私は自分で言うのもなんですが、小さな頃から大人びていたつもりで、「親が死んでも涙なんか出さないんだろうな」とクールな少年を気取っていました。
それほど親の死というものが想像できていなかったんでしょう。

「どうしよう、どうしよう、お父さんがいなくなったらお母さんどうしよう・・・」と涙を流す母の肩を抱きながら、「大丈夫だから、大丈夫だから・・・」としか言えない自分もポロポロと涙を流していました。
まさか自分がこういう状況でこれほどまでにうろたえるなどと思ってもいませんでしたから、涙でうまくしゃべれない自分に、自分自身が一番びっくりしていたと思います。

それから1年後、病院で静かに息を引き取った父を囲んで、私も母も涙を流すこともなく「お疲れさま」といって父を見送ることができました。
思えば、それは父が私たちに残してくれた、悲しみを癒してくれるための時間なのかもしれません。

●母への親孝行

東京で一人暮らしをしている頃から親のことなどすっかり忘れて遊びほうけていた私は、随分と心配をかけていたことと思います。
ほとんど連絡もせずに、ちゃんと就職も出来ず、借金は作るわ、彼女も出来ないわで、いかんなくアホ息子ぶりを発揮していました。

それは函館で生活をするようになってからも同じです。
車で3分、歩いて10分の距離にある実家に年に何度顔を出したことか。
父が倒れた年も、お正月に会ったきり半年も会ってなかったような気がします。

父が倒れたことで、長男という私の本来の役割を全うするチャンスがきました。
病院へ行ける日は母と一緒に行き、話すことができなくなった父の顔を見ます。
私の役目は耳そうじと爪切り、水虫の薬塗りでした。
病院からの帰りは、母と一緒によく蕎麦屋で食事をしました。
母は糖尿病なので、「どこでもいいよ」と言われても結局蕎麦屋になってしまいましたが、蕎麦好きな私にとってはかえって好都合でした。
週に2度3度と蕎麦屋に足を運ぶ二人を、お店の人も不思議に思っていたかもしれませんが、これも父がくれた母への親孝行をするチャンスだったのかもしれません。

●母の名前は

実は私、小学校の低学年まで母の名前を友達に話すことができませんでした。
母の名前は「タエ子」というのですが、東北出身の父はそれがうまく発音できませんでした。
「ひこうき」は「しこうき」、「絵心」は「胃心」、自分の名前すらも「えんどう」ではなく「いんどう」と呼ぶくらいでしたから。

ある日、友達にこう聞かれました。

「えんどうくんのお母さん、なんていうの?」

そう聞かれた私は自分の母の名前が「タイコ」であるとは言えませんでした。
そんな叩けば「ドンドコドン!」と鳴るような名前を言えるはずもありません。

「うーん・・・知らなーい。」

友達は不思議そうな顔をして私を見ました。私が母の名前を「タエ子」だと知ったのは、それからしばらく後でした。
でもここでこんな話をコラムにできるのも、もしかしたら父のネタふりだったのかもしれません。

函館音楽協会春季定期演奏会第92回函館三曲協会演奏会のリポートをアップ。

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